「Snow Queen 14」
「豊君?」
執行部室の机で、頬杖を付いてぼんやり窓の外を眺めていた豊は、え、と振り返る。
両手に持った書類をトントンと調えながら、結奈が心配そうにこちらを見ていた。
「どうかなさったんですか?さっきからずっと外を眺めていらして」
「あ、いや、もうすぐ冬だなあと思ってさ」
アハハと乾いた笑い声が漏れた。
それが、言い訳であることくらい、彼女ならすぐ見抜いてしまうだろう。
案の定結奈は僅かに顔をしかめてから、そうですかと言って微笑み返してくれた。
その優しさすら、今は虚しい。
豊は手元の書類を見下ろして、ボールペンを握る直前、小さく溜息を漏らしていた。
秋津豊は天照郷に戻ってきた。
天照館高校と月詠高校の交歓留学に特に期限は定められていなかったから、いつ戻ってもよかったのだろうけれど、丹塗りの大門をくぐる瞬間僅かにためらいを覚えていた。
ここをくぐれば、俺はもう、本当に二度とあの場所には帰れなくなる。
それでも、今更引き返すことなどできなくて、結局重い足取りで奥津小路まで進んだ。
一度執行部に戻って報告を、と思った矢先、紫陽花から出てきた伽月と久々の再会を果たしたのだった。
「あっれーゆんゆんじゃん!わあ、久し振り、帰ってきたの?そんな話聞いて無いぞ!おかえりー!」
ひと息にまくし立てられながら腕に飛びつかれて、苦笑いを洩らした豊をぐいぐい引っ張って学校までつれて行ってくれた。
部室では、すでに報告を受けていたのだろう、綾人と結奈が共に豊の到着を待っていて、伽月と同じようにお帰りと笑顔で迎えてくれた。
「お役目ご苦労様です、豊君」
「豊、大義だった、礼を言うぞ」
いや、そんなと曖昧に答えつつ、彼らの言葉の一つ一つが胸の奥にざらついた感情を残していく。
逃げてきた俺に、そんな言葉をかけないでください。
バックの紐をギュッと握り締めて、何とか笑おうとしても頬が引きつるようだった。
月詠での事を色々聞こうとする伽月を制して、綾人は、今日は疲れているだろうから、とりあえず寮に戻ってよいと言ってくれた。それが一番嬉しかった。
「詳しい報告は後日、書類にまとめてもらうことになる、お前の行いは天照館の歴史に名を残す偉業だ、我らの溝も、これで多少は埋まってくれるだろう」
―――そんなことは、ない。
俺は結局、何もできなかったところか、溝を深くしてしまった。
「今日は自室にて休め、豊」
「はい」
執行部室に背を向けて、伽月の付き添いも断って、豊は、人目を避けるように寮の自室へと戻っていった。
鍵を回して久々に踏み込んだ室内は、やけにがらんとして殺風景だった。
長く家人が留守にしていたせいか、空気が冷たくて、僅かに埃っぽい。
ドアを閉めて、スポーツバックを降ろすと、何だか笑いがこみ上げてくるようだった。
「ここも、月詠の部屋と変わらないじゃないか」
冷たく無機質な、けれど、熱を帯びた思い出ばかりが残っている場所。
靴を適当に脱ぎ捨てながら部屋の隅まで行って、豊は座り込んでいた。
肌が寒い。
両腕で抱きしめて、俯くと、古びた畳の目地に何かが落ちた。
ポタポタとこぼれ続ける様子と共に視界がにごるので、ようやく自分が泣いていることに気づいた。
「うっ、うう、うう―――」
思い出は痛いばかりなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。
最後に見た薙の姿ばかりが思い出されてくる。
二人の距離はこんなにも開いてしまった。もう、戻れない。
隙間風がカタカタと窓を揺らす音を聞きながら、嗚咽はいつまでも止まる事がなかった。
交歓留学に関しての提出書類は、殆ど上辺だけの簡素な内容に仕上がった。
まとめてみて、こんな味気ない文章になってしまうような日々だったのかと、春からこちらの記憶に思いを馳せる。
注意などはされなかったから、呉は多分こちらの機密を話してもいいくらいのつもりで帰還許可を出してくれたのだろうけれど、豊は月詠での討魔や、学校内施設に関して、一切の情報を書類の中に記載しなかった。
無論、尋ねられても答えるつもりは無い。
月詠からの交歓留学生、御神晃はまだ天照館に残っていて、豊からしきりに月詠の話を聞きたがったけれど、共にペンタファングに所属していた彼にも詳しい事は何も伝えなかった。
ただ、彼の仲間達―――伊織や崇志、凛の事は、仕事に関係しない部分だけ、事細かに近況を話して聞かせた。
「ほんなら、飛河は?あいつ厳しいやろ、まあ冷血漢とかそういうのんとはちゃうんやけど」
豊は曖昧に笑ってごまかす。
今はまだ、薙のことだけ話したくない。
晃は随分と彼をかっているようで、こちらが聞きもしないのに色々と喋り続けていた。
「あいつなあ、昔はあんなんとちゃうねんで、もっとよう笑って、よう怒る、普通の奴やった、それが、ラボ入りした途端、験力ちゅうの?それに目覚めてもうて、人格変わってしもうてなあ」
「―――飛河が、そうなのか?」
「せやで、けどな、変わらんもんもある、あいつはあいつなりに、仲間思いのええ奴なんや」
「仲間って」
「ペンタの皆にきまっとるやろ、せや、ゆんゆんもペンタやんなあ、なら飛河もちゃーんと色々気にかけとったはずやで、わからんかったん?」
豊は呆然と晃の顔を見ていた。
そんな事、俺は何一つ知らない。
薙は出会ったとき、すでに氷の印象を纏っていて、それは最後まで変わることはなかった。
強力な力と、鋼の心。機能性だけを追及したような機械的な人物。
そればかりが全てで、それ以外に思い出せる事は、豊を乱暴に奪っていく時の激しすぎる熱だけ。
ラボのことや彼が変わったという話は、晃のように昔を知っている人間に聞くかしなければ知ることはできなかっただろうが、気にかけられていたとは到底思えない。
天照の人間だから、俺の事は、ただ見張って、おかしな真似をしないように支配していただけ。
そんな事を呟いた豊を、晃は笑い飛ばしていた。
「そんなはずないやん!飛河も、ラギーも、凛も姫宮も、みーんなええ奴やで、まあヒメはちょっと口悪いけど、そんなん誰かてあるやん、悪いところの一つや二つ、わいらはな、天照さんトコ違うてつるんだりせえへんけど、ちゃんと仲間意識はあるねんで、これでも」
「でも」
「せやな、ゆんゆんは、月詠いた時間短いもんな、しかも、天照から来たっちゅう札付いとったし、簡単に馴染めへんわな、けど、ほんまの話やねんで、わいらもちゃんと仲間は大事にしとる、ただやり方がちょっと違うだけや」
そもそも、仲間と思えない人間と、討魔活動なんてできるわけないやろ。
豊は何も言い返せなかった。
短い時間とはいえ、自分は確かにペンタファングの一員として活動していたし、その際戦力としてあてにもされていたと思う。
痛い記憶ばかりで、肝心な事を忘れていたのかもしれない。
晃の言葉が胸の奥で繰り返されるようだった。
「でも、俺は」
それだけでは無いと、苦い記憶がグッと胸を詰まらせる。
「もう、あの場所には戻れないんだ」
月詠の、いや、薙のいるペンタファングには、もう二度と。
俯いた豊に、晃はかける言葉を見失って、饒舌だった口元を静かに結んだ。
―――彼は、それ以上月詠の事を聞こうとしなかった。
その時の様子を思い出しながら、手元の書類を束ねて、教員室に提出に行く。
受け取った山吹と何か話した気がするけれど、よくは覚えていない。
執行部室に荷物を取りに戻ると、室内にはいつのまにか綾人と嘉瀬が訪れていた。
「豊」
何事か話していたらしい綾人が振り返り、続いて隣で不安げに表情を曇らせていた結奈が振り返る。
嘉瀬も、こちらを見ていた。
「どう、したんですか?」
ただならぬ気配に、後ろ手に扉を閉めて近づいた、豊に綾人が言い放つ。
「月詠が動いた」
―――全身がビクリと震えていた。
「場所は出雲、目的はまだ不明だが、かなり大きな験力が発露したらしい」
「それは」
「俺にもわからん、だが、彼らが何らかの目的を持ってかの地へ赴いた以上、我らも行かねばならぬだろう」
目的を同じにする者同士として、共に立つ必要があるのだと、綾人は強い口調で語る。
「豊が紡いでくれた、我らの共闘の道、今ここで選ばねばいつまた交わる、機を逃してはならない」
「しかし総代、我々は今」
結奈が懸命に声を上げた。
豊は知らなかったことだけれど、綾人が前回月詠を訪れたことにより、執行部は謹慎処分を食らっているらしい。戻ってそう聞かされた時にはひどく驚いた。
それほどの決意を持って、あの時あの場所に現れていただなんて。
(俺は全然、気づけなかった)
自分の事で手一杯で、両校の中立役としての使命すら忘れていたように思う。
豊が表情を曇らせると、綾人は、全員に無理に参加しろとは言わんと固い口調で二人に告げた。
「ただ、俺は一人でも出雲の地へ向かう」
「総代ッ」
「結、立たねばならぬときはあるのだ、そしてそれが今だ、なら、ためらう必要など無い」
「ですが」
「これだけの焦燥感を前にして、何故立ち止まってなどいられる?我らが向かわなければならないものは、もっと大きな時代の力だ、そして道は豊が繋げてくれた、俺はそれを無駄にしたくない」
豊、と綾人が振り返る。
「俺が以前月詠でお前と会ったとき、言った言葉を覚えているか?」
お前は架け橋になるものだと、そう告げられた言葉が脳裏をよぎる。
別れ際に抱きしめられたことも。
綾人はフッと微笑んでいた。
「お前の道を俺も肯定しよう、俺は、お前が結んだ絆を信じている」
「総代」
「彼の者達もきっとそうだろうよ」
ギュッと掌を握り締めて、豊は俯いた。
胸の奥で何かが芽生え始めている。
それは、急速に勢いをつけて、どんどん大きくなっていくようだ。
月詠、ペンタファング、そして、飛河薙―――
(逢いたい)
顔を上げた。
目の前では綾人が、結奈と慌しく打ち合わせをしている。
この、強権的な天照館総代についに折れたらしく、真面目で一本気な補佐役も彼に同行する腹を決めたらしい。
出雲に赴いたペンタファングを追えば、何かわかるかもしれない。
それは、他ならぬ俺自身のことで。
今は逢って話をしたい。そういえば、そんな機会をまともに持ったことすらなかった。
長い苦しみが、ようやく一つの方向に向けて動き出したようだった。
豊は、薙と逢って話がしたかった。
何を話せばいいのか、それ以前に会話が成立するのかと、不安は多分にあるけれど、綾人のいうように迷っている暇は無い。
立たねばならないときはある。そして、それは今だ。
「総代」
豊の呼びかけに、二人が振り返った。
豊は息を軽く吸い込んで、決意を込めた眼差しと共に彼らに告げた。
「俺も、出雲へ行きます―――」
(続)